2011年11月7日月曜日

宗教科の授業の満足度を高めるには

私立学校はある宗教を建学の精神の基礎とされることが多いのですが、
授業自体はあまり高い満足度とならない、というケースもよくあります。

そんななかで、前期、後期とも全国の授業アンケートの総合満足度でトップ10に入り(2009年度)、かつ前期よりも後期の方が結果が伸びている、という先生にお話を伺ってきました。

○概要
神奈川県のY高校、Y先生
前期 15クラス570名 後期 15クラス558名 (1年、2年の全クラスを一人で担当)
伸びた指数 関心度 48→51  学力向上実感 0→26

1年 宗教とは何か 日本の宗教 聖書系の宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)
2年 仏教

月曜から木曜の1限から6限までをほぼ休みなく授業をもち、金曜・週末はお寺の仕事をされているということです。

○意識されたこと
2007年までは1年生のみを担当していたが、2008年に前任者が急な退職となり、以後1年生と2年生のクラス全ての宗教科授業を受け持つようになった。
当初は前任者のカリキュラムを踏襲し、難解な仏教用語や理論も教え、さらに般若心経の現代語意訳ということも授業で行っていた。
しかし、特に般若心経の講義においては、板書を終えて振り返るとほとんどの生徒が寝ているという状況が一度あり、生徒の理解力に即したカリキュラムに変更する必要性を感じた。そういうこともあり、色々と試行錯誤していたのがこの年。なので変化があったのかもしれない。

○どのような改善をされたか
基本的には「一般の生徒が聞いて役に立つ宗教的知識、仏教的知識を教えよう」ということ。例えば、善悪の判断。人を殺したり盗んだりするのは「なぜ」いけないのか。
仏教にはカルマ(業)という考えがある。自分のする行為が自分に返ってくる。なぜ悪いことをしてはいけないかと言えば、その悪い行為の結果が自分の人生に悪影響を及ぼすから。特に、確実に不幸になる10個の行為をしてはならない、ということを十善戒というが、そういう教えが仏教では説かれている。「生き物は皆幸福になりたいと思っているのに、わざわざ不幸になる道を選ぶのは、損ではないですか?」といったような話をする。生徒の身近な話題からそうしたことを伝える。ニュースでは連日盗みや悪いことをした話が流れるので、展開・応用のネタに困ることはない。

当然、仏教のプロを育てることが目的ではない。現代社会の中で生かすことのできる知恵などが身に付けばいい。宗教というと、うさんくさいとみられる雰囲気もあるが、そこから学べることを数多くある。幸せになるために、ただ祈ればいいという教え方はしない。祈り、信心と共に、日々の精進が必要と説く。正しい教えを知っているだけではダメで、行動に結びつかないと意味がない。

○板書の工夫について
板書の量が多かったので要点をまとめた。字の大きさも大きくした。書道をやっていたので書体も書道に近かったが、これを見やすい字体にした。また、しゃべる言葉や板書の用語が難しすぎないかどうかはいつも確認した。

○理解度把握について
ノートチェック。抜き打ちチェックにしているが、一定のサイクルで回収する。以前は800人分を試験期間中に集めてチェックしたが、夜に寝る暇もなかったので、時期をずらすようにした。担当生徒が400人弱の時は一言コメントもしていたが、とてもできない人数になったのでサインのみ。検の字とサイン(花押)。両方ともあればOK。△の出来なら検の字のみ。×の出来ならチェック。良い出来なら+やコメントをつける。
プリントは補助教材として資料を年に10回ほど配る程度。

○態度の悪い生徒への注意
基本的に、自分が「怒る」ということをしない。これは十善戒の中にある「不瞋恚(ふしんに)…他者に対して害心を持たない」を教えている都合上仕方ない、というのもあるが、仏教徒としてのポリシーの一つとして実践している。自分が怒りに支配されている状態で生徒を指導すると、生徒に変なスイッチが出来る。この程度の怒鳴られ方ならまだ大丈夫、という考え方になる。ほかの厳しい先生の怒鳴り具合、怒り具合と比較しながら。これでは、厳しく怒鳴られるから黙る、というスイッチが出来てしまう。「なぜいけないのか」ということは学ばない。授業中に私語するのも、学校を遅刻するのも、「なぜいけないのか」ということを分かってもらう。授業中に居眠りすることが、どれだけ自分にとって損であるか、など。とはいえ、各クラス1単位の授業である関係上、指導について効果が出ているか、判断が難しい部分もある。ただ、アンケート結果で見てみると、一応「生徒を上手く注意できている」という項目について評価をする生徒が多くなってきている、という事実もある。

今年から弟に少し授業をもってもらっているが、この「怒りの心を使わない」という点は共有してもらっている。怒りにまかせて何かをするな、と。これは酒に酔っているのと同じ状態。なので、授業中に無闇に生徒を恫喝しない。ただし、叱ることはある。冷静な状態で、生徒のためを思って「叱る」のと、怒りと感情に任せてただ大きな声で「恫喝する」というのには大きな差があると考える。これは、仏教徒としての意見。

○最近した話
一年生の授業で神道の話をした。神道では、天照大神が日本全体の守り神としている。一柱の神が全国を見るのが大変なので、各地域、各一族の守り神様が別にいる。これを産土神や氏神と言い、こうした各地域の神様の下で育った人々を氏子という。両者は「守る」「まつる」の関係にある。氏神は氏子を守り、氏子は氏神をまつる。祭りとは、氏子が氏神をもてなし、喜ばせるために行う。「まつり」とは「待つ」「待っている」ということ。良い神様を迎え、もてなすのが「まつり」。正月も「まつり」の一種。新しい歳神様を迎え、もてなすために、大掃除をして家と体を清め、門松を飾り、鏡餅をお供えする。昔から、日本では人が神様に成る国。日本では、人が死んで100年たつと御魂(みたま)上げといって、神様に格上げされた。その風習は今でも仏教と習合し、回忌法要として残っている。氏神はご先祖様の集まり。氏神がなぜその地域に住む人間を守るのか。そう見ていくと分かる。親が子どもを守るのに理由はいらない。孫や子供を見守るような感覚で、ご先祖様達が守ってくれているのだという信仰が、神道の中には生きているのだ、という話をした。



(インタビュー後記)
インタビューの最中は常に笑顔で穏やかな話しぶりが印象的でした。また、一つ一つのことを丁寧に説明され、すべての話しが論理的で問いと結論が筋道だっていてわかりやすいです。ご自身のことについて伺いますと、「寺の息子は、子供の頃は仏教に対して反抗的であったり、宗教を嫌いになる場合が少なくない。自分は、やはりその反動で大学時代は西洋哲学の方にいった。なので、論理や哲学というものには強い関心をもった。しかし、結局、自分の求める答えは実は仏教にあることに気づき、高野山に行った。」ということでした。論理と人生の寄り道、状況への柔軟な対応と「怒らず」の精神が魅力的な授業の秘訣のように感じました。

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